自分の人生は一度キリ。
生まれ変わりというものがあったとしても、前世は覚えていないのだから、やはり、この世では一度きりの人生。
しかも、奇跡的な確率で生まれてきたこの人生。
そんな貴重な人生をどう生きたらいいのか。
先人も悩んだように、答えはあるようで無い。
大変な確率で生まれてきた割には平凡な人生を送る人がほとんど。
平凡が悪いわけではないか・・・
さて、どう生きようか。
生きている限り、悩み、心配ごとは尽きないもの。
でも、それにばかり囚われていたのでは、
幸せな生き方はできそうにない。
前回の「生きる意味はあるのか?」の話に続いて、
では、どう生きたらいいのかについて考えてみたい。
人間として生まれて
生まれて、食べて、寝て、繁殖して、死ぬ。
これでは、他の生物と変わらない。
そこには「どう生きるか」が無い。
何のために生まれてきたのかわからない。
人間として生まれ、学び、工夫し、創造し、移動し、楽しむ術を知っているにもかかわらず、それをしないとしたら、なんと勿体ないことか。
人間としてこの世に生まれてきたからには、
その術を使って、この僅かな人生を楽しまないと本当に勿体ないのではないか。
地球の年齢からすると微小時間であるこの人生を。
悩みの種類
そんなこと言ったって、生きていれば悩みだらけ。
生きていくだけで精一杯という人もいるでしょう。
そんな人はどうしたらいいのか。
人間の悩みの種類は4つと言われています。
健康(美容)、仕事、人間関係、お金
容姿に恵まれ健康で、好きな仕事をして、いい仲間に囲まれ、金銭的にも恵まれた人。
そんな人はこの世に何%いるのでしょうか?
その人でさえ、その状態がずっと続くわけではないでしょう。
多くの人は大なり小なり、いつかの時点で何らかの悩みを抱えているものです。
しかし、悩みに囚われてばかりいると、幸せな人生は送れません。
悩みの種類4つ全てあるという人には、声をかけることさえ難しいのですが、たとえ悩みはあっても、上の4つの内、一つでも恵まれていることがあれば、そこにフォーカスして、そこから活路を見出すことから始めてはどうでしょう。
中でも、健康の悩みは辛いですね。
でも、人間関係に恵まれているのなら、そこにフォーカス。
人間関係の悩みはあるが、健康でお金もそこそこあるなら、いい人間関係の結べそうな所に移動しましょう。
要は、「まだ恵まれているな」と感じる方へフォーカスです。
悩みに対する明確な解決策というものはありませんが、とにかくそれに囚われていたのではいけないと思うのです。
幸せな生き方とは
その人の嗜好、趣味、能力、資質、考え方、死生観によって、何が幸せなのかに違いはあるものの、自分が楽しめて、能力・資質を生かしきれば満足と言えるかもしれない。
この世に生まれて、やりたいことをやり尽くして、
十分満足してこの世を去る。
というのが幸せであり、理想と言えるのかも。
やりたいことが見つからない
それ以前に、やりたいことが見つからない?
確かに、多くの人にとっては、やりたいことを見つけること自体が難しい。
頭で考えてもなかなか出てこないものです。
趣味、旅、スポーツ、社会貢献・・・なんでもいい。
やってみたいけど、面倒だしお金と時間が・・・
と、言い訳せずに(笑)、とりあえず手を付け、動いてみること。
やってみないことには、本当に自分のやりたいことは見つからないのでは?
意外と、人との関わり合いの中で、思ってもいなかったことが出てくるかもしれないのだから。
私の場合は、
国内(海外)旅行、バイク、車、弓道、太極拳、キャンプ、登山などだけれども、それで満足しているかというと、そうとも言えない。
一時的に楽しめても、その後の充足感がいまいちなんですね。
結局、一時しのぎの楽しみや、自分さえ楽しめればいいというのでは、本当の幸せは見えてこないように思えるのです。
本当の幸せ
「本当の幸せは高揚感の中にはない」
と、どこかで読んだ記憶がある。
「平穏な日常が真の幸せ」だと。
確かにそう思う。
「やったぞ」
それは、一時的な高揚感、満足感であり、
そこには本当の幸せというものは無いということ。
平穏な日常の中で、どう生きたらいいのかを考えるということ大切ということでしょう。
と言っても、
たった一人で生きて、日常の中で幸福感を得るのは難しく、
そこには幸福を共有できる人が必要でしょう。
でも、それだけではダメだと、心理学者のアドラーは言うのです。
人類の幸福に貢献しないと、生きた意味は無いのだと、
こうなると大きな話になってきたと思ってしまいますが、なにも、大それたことをしなければいけないということでもなさそうです。
他者と生きる感覚
アドラーは言います。
「人類の幸福に貢献しなかった人間は」
「何も残さずに消えた」
と。(結構きつい言葉ですねww)
そのためには「共同体感覚」(他者と生きる感覚)
を持たなければいけないと。
旅行、バイクなどの趣味を個人的に楽しむことが、人類の幸福に貢献することかというと、「そうです」とは言い難い。
「他者と生きる」という感覚を持てば、
日常の中、旅先での人との出会い、バイク仲間やバイクを通じての人との出会いで、ひょっとしたら、小さな幸せを得たり与えることが出来るかもしれない、と考えることもできる。
人との出会いによって、学ぶこと、考えさせられること、助けられること、助けること、など、一人ではできないことがあります。
いくら個人主義を貫こうとしても、
人は一人では生きていけません。
「いやいや、自給自足で一人で生きていけますよ」
と言う人でも、
一切、人や社会と関わらずに生きてはいけないでしょう。
電気、水道、ガス、電話、移動手段、自給できない食材、などなど、最低限人との関わり合いは必要です。霞を食う仙人でもなければ。
一人で生きていると思っている人でも、他者から何らかのお世話になっていませんか?居なければ困ることはありませんか?
私はこうやって生きるんだという固い信念を持っている人は幸せだと思う。
しかし、悩みながらも日々の生活に追われ、一日が過ぎていく。
そんな人がほとんどではないでしょうか。
一度立ち止まって、自分の生き方を考えてみる時間を持つのも必要だと思うのです。
「どう生きるか」というのは、
恐らく答えのない問いでしょう。
しかし、それを考えること自体に意味があるのかもしれない。
どんなに恵まれている人、不幸な人でも
人は皆、100%の確率で死ぬのです。
寿命は誰にもわからない。
長く生きればいいというものでもない。
It’s not how you long your live but how you live it.
(人生は生きた長さではない、どう生きたかだ)
自分の為、人の為に精一杯生きることを考えたい。
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